2011年4月27日水曜日

東日本大震災・現場調査報告 2011.4.16-18

東日本大震災・現場調査報告 2011.4.16-18
江戸川大学社会学部ライフデザイン学科教授 鈴木輝隆

2011年4月16~18日、現地調査に行きました。
陸路、新幹線等考慮しましたが、移動時間も最短であった飛行機をなんとかキャンセル待ちで手に入れることができ、向かうことができました。
メンバーは、日本デザインセンターの原研哉さん、鍋田宜史さん、内田奈緒さん、MUJIの土谷貞雄さん、ご縁カンパニーの山口八重さん、そして私の6名です。
コースは、16日は、東京羽田空港→いわて花巻空港→花巻市東和町土澤(車)→遠野市→釜石市→大槌町→遠野市→花巻市東和町土澤(宿泊)
17日は、花巻市→釜石市→大船渡市→陸前高田市→気仙沼市→一関市(宿泊)(車)
18日は、一関市→いわて花巻空港→東京羽田空港(車)

〇被害地域の状況
現場全体の印象は、大地震の揺れによる被害は少ないにもかかわらず、津波の被害は甚大で、津波が来た場所には何ひとつ無事であったものはありません。誰にも住まう場所はまったくありません。建物から家財道具、車まで形あるものは、津波の力で破壊されすべて粉々というような無残な光景がどこまでも続きます。津波で破壊された車は、建物に突き刺さり、ぐちゃぐちゃになり、勝手に処理できないこともあり集められ、無残な印象が脳裏に残っています。
海に浮かんでいるはずの大きな船が家屋や陸上にあがっている風景も数多くあり、津波被害の甚大さを感じさせ、記憶に残ります。
この甚大な津波の被害は青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県の海岸へと続き、恐ろしさに身震いします。岩手県、宮城県、福島県の3県だけでも300kmあり、堤防は190kmが破壊されたと聞きますから、私はごく一部の現場しか見ておりません。
岩手県の海岸は、リアス式だけに、津波が川を上ってきて、海から何キロも離れた集落でもすべてが粉々に破壊されるなど、被災地の規模の大きさには、ただ驚くばかりです。リアス式海岸だから、海岸から約30m以上高いところに、津波予想地点という道路標識があり、津波を予想し準備をしていたのかもしれませんが、ここまで押し寄せるとは想像できず、行政も住民も高を括っていたのかもしれません。
どのような根拠があるのか、分かりませんが、地元の多くの人が東北ではここ6,7年くらいのうちに、大規模や地震や津波が99%あると言っていたが、本当に起きてしまったと話します。
破壊された市役所など公共的な建物には、「地震・津波に備えよう」という、横断幕が残っていて、災害対策も力を入れて行ってきたと思われます。
岩手県はリアス式海岸が多く、細く長く被害を受け、ただ平野部の陸前高田市では、内陸へ向かいどこまでも津波が押し寄せ、町のすべてが消えてなくなっています。宮城県は平野部が多いので、陸前高田市と同じような被害が広がっているという話を聞きました。
原研哉さんは、東京湾に津波がくれば、平地なので職場がある銀座は全滅だなと、つぶやいていました。
津波が来た地域は、どこも同じようにすべてが粉々で、一度押し寄せ、海の底が見えるまで引き、前以上の大きな津波が押し寄せ、家にものを取りに来た人たちを襲ったそうです。3回くらい津波は襲ってきて、人や車、破壊した建物瓦礫を海に持っていったと、話をしていました。
海岸沿いはすべて破壊され、津波が川を遡って押し寄せた地域は元の姿を留めていませんでした。家を失くした家族が思い出の品をガレキの中で探している現場はまだ複数ありました。

〇復旧の状況
すべての被災地では、現場の片づけの速度は、私が想像していたよりも早く、被災地の道路はすべてというくらいガレキは片付けられ、車の運行には支障はありません。電気の復旧は早く、新しい電柱が設置され、水道や宅配便など、ほとんど問題ないようです。
被害地域が広範囲で、ガレキの処理についても、どこから手をつけていいのか分からないくらいだったと思いますが、考えられないくらいのスピードで片付けが行われたと思います。日本は災害が多く、過去の経験があるから、現場ではすぐに必死の対応が行われたと思います。
例えば、陸前高田市は平野部で、津波が市街地のすべてを破壊し、奥まで来ていましたが、見渡す限り、ガレキのほとんどは片付き、がらんとした荒野でした。町の中心部は何もない。ガレキをあっという間に片付けるには、自衛隊や消防団、警察などによる目視による遺体の発見からはじまります。その後、自衛隊や自治体から依頼された業者などが、重機を使い一気に片付け、仮設の道も造ってあります。車の通行量は普段より多いのではないでしょうか。
津波が押し寄せた地域は建物建設の禁止区域になっていますから、この光景は当分、この状態でしょう。
自動車は破壊されても、所有者の許可がないと処理することができないこともあり、数多くのぐちゃぐちゃになった車が数多く集められ、多くの人が写真を撮っていました。車の処理は法律ができ、すぐに片付けられることになると思います。
これから被災地の現場は、1週間経てば、すごい勢いで片付いていくという話も聞きました。日本人の災害の復旧への意志と技術、昼夜を問わず厳しい条件下での必死の作業をする勤勉さに感心しました。
一方で、まだまだ地元の新聞には遺体確認の記事が出ていて、毎日150人以上もお名前が載っています。捜索活動は気仙沼市のガレキ現場でも行われていて、空からはヘリコプターを使って海上捜索を行なわれ、私がいた時、唐桑地区で1名が発見されました。
私が回ったところでは、遺体捜索は気仙沼や大槌町などで、他はもう終わっているので、ガレキの処理は早く進むのではないでしょうか。
10万人を超える自衛隊の救助活動には感謝しかありません。一番多く見かけた車は自衛隊です。遠野市や一ノ関市にある自衛隊のキャンプでは、彼らは1カ月以上もテント生活です。住民の方が自衛隊に感謝している姿はよく見かけました。県外ナンバーの警察や消防の車も良く見かけ、全国の自治体からの支援も普通に目にし、災害の多い日本では自治体間の連携の必要性は、現場で学ぶことができます。
被災地でも津波の被害を受けていない店では、普通に営業していて、日々の行動の中から復興は生まれる、東北人のたくましさを感じます。
ガレキ撤去の作業は、自治体の判断ではじまるのでしょうか。陸前高田市だけがいち早く片付けてあり、ほかの地域ではガレキ処理が進んでいませんでした。すぐには町を復興することができないと考えているのか。仮設住宅に力を入れているので、後まわしになっているのかもしれません。
まちづくりに携わっている人は、一度現場を歩き、自然災害の厳しい現実に向き合うことを勧めます。自分の意見に責任を持ち、自然の前におごることのない専門性とは何かを考え、住民の人の真の願いに耳を傾け、ともに考え行動していくべきだと思いました。
マスコミで評判が悪いのは、自分のシナリオを持って現場に来て、それにあった場所や被災者を探し、編集していくので、信頼できないという地元の方は多かったです。テレビでコメンテーターは何を言っているのだとも、その無責任さにあきれるとも話をしていました。こうしたマスコミによって、現場の事実が伝わっていないと住民はいいます。
地元の住民が話し合って、残る人は残り、自らが行動する中から真の復興は生まれると思いました。専門的な知恵や経験には、住民はきっと耳を傾けてくれます。逃れることができない厳しい現実の生活の中で、外部の人であっても真摯な考えや行動を、住民は見抜く力をつけています。

〇支援物資の状況
ものの支援は、多くの志ある方や組織、行政、企業などが素早く対応し、支援センターなどには置場がないくらい。ものはもういらないと、ほとんどの場で話を聞きました。日本だけでなく世界中のみなさんが、自分にできることはないかと、それぞれが支援物資を送ったこともあり、海外からも多くの物資が届き、広い体育館がものをこれ以上、置くところがないほどでした。食料から衣服、日用品に至るまで、ほとんどの物資はそろっています。
海岸部の自治体が壊滅状態なので、隣接した被害が少ない自治体が物資の支援を行ってきました。しかし、自治体が違うので直接避難所には運ぶことはできないので、いったん被災地の自治体の支援センターまで支援物資を届けています。そこから、地元の自治体が避難所に届けるのです。
さらに、避難所では、避難者が多いので、全員分の数が揃ったものでないと、苦情を言われるので、半端な数では配布などの対応はできなかったそうです。支援物資は、避難所に1000人の避難者がいれば、物資も同じものが、1000個が揃わないと配れないなど、行政を通じた支援には限界もあったようです。行政に携わる方々も被災者であり、手が足りない中で、今なお大変な苦労をしています。物資の仕分けもままならないまま、現在は、山積みになった物資の中から住民が必要なものを探し出して持っていくという状態の物資倉庫もありました。
海外から物資を送りたいという問い合わせに、同じサイズで同じ色のものでなければ受け取れないなど、相手の国の方も日本の行政対応にびっくりしたと言う話もあるそうです。
大槌町では、防波堤が破壊され、ガレキの山の中に、廃墟となった家の屋根に大きな船がドーンと乗っていました。このガレキの中を元気に走り回る子どもたちが3人。話をしてみると、みな家は流され、被災地から10mも上がらない学校で避難生活を送っています。欲しいものや足りないものがあれば届けるから、何かありますかと、子どもたちに質問をしたら、何も困っていないが、避難所ではすることがないので、ゲームがあればいいなと、生活の物資は足りているようでした。
ただ、いま津波が大槌町の避難所を襲ったら、どうなってしまうのだろうと思うような低い場所で、暮らしているのが気になりました。子どもたちは、未曾有の災害にもあっているのですが、明るい表情で、この町が好きで、これからもこの町で暮らしたいと返事をし、再び楽しい日々の暮らしが戻ってくると信じていました。これから社会に出る子どもや若い人たちは、復興ゼネレーションと言われる力強い世代に育ってほしいものです。
ボランティア団体は、それぞれが小さな支援を、自分の判断で行い、自由にきめの細かい対応をし、臨機応変に支援物資を避難者に届けてきました。手元にある支援物資は、普通の生活に必要な物資は足りていて、置き場がなくなっています。ある意味で、多くの人たちからの善意の物資支援が、避難者の命を救ったと思います。そして、被災者や現地の人の精神的な支えになったと思います。

〇ボランティア活動の状況
活動を始めたころは、できることから、個々のボランティア団体で別々の活動をしていましたが、現在は落ち着き、遠野市でも釜石市でも、地元の社会福祉協議会が中心になり、ボランティア団体の調整をとり、必要で細かい支援を系統だって指示をだして、支援を行っています。
ゆるい組織からなるボランティアのコミュニティは、行動しながら秩序を創造していました。今後のまちづくりに参考になるのは、ゆるい組織から力強い地域支援が生まれると言う事実です。
被災地があまりにも広範囲で甚大で、町全体が破壊された場所では、ボランティアの人力だけではとても無理で、大型の機械でなければ復旧作業は進まないのが現実です。
陸前高田市の中心部は、すでに整理され、ただの水の広場のようになっている現状です。ボランティアは、津波被害の周辺部などで、農地のガレキ整理を行っていました。農家がある周辺では、道の両サイドや田畑には流れてきたガレキがまだまだいっぱいでした。
釜石市では、津波の被害を受けたものの、高さ23mの巨大堤防のお蔭で、建物が残っている家が多く、多田さんも一緒になって作った釜石自立支援センターに滞在するボランティアが、ガレキを人力で排出していました。1軒行うには3人がかりで4日間ほどかかるそうです。現在、町の中心部の道の両サイドにはガレキがいっぱいで、これから処理場が問題になると思います。
あとは、ボランティアの活動は、避難所で炊き出しや被災者の話し相手になるなどの支援を行っているようですが、今回は避難所を見ることができませんでしたので、話を聞いただけです。
気仙沼では、ボランティアが中心となって空き地で炊き出しなどをしていましたが、被害はひどいものの落ち着いた状態でした。
これから現地でのボランティアを希望する人は、地域の社会福祉協議会に状況を訪ねて行くのが良いと思います。単独行動では地域の役には立たないと思います。
それにしても、方針が決まれば、現場の動きは早いようです。物資を配る活動は4月でやめるところも多く、避難所から仮設住宅に移住する人も出て、避難所生活支援から、仮設住宅や生活できる建物に移住していくと考えられ、仮住まい者の支援となるようです。
現在は、津波が来た地域では建設は禁止です。家の建設を伴う町の復興は時間がかかりそうです。ボランティアの活動は避難者に寄り添って、生活応援や雇用応援となっていくのではないでしょうか。


ここからは、ローカルデザイン研究会で支援している、花巻市東和町土澤の猿舘祐子さん、遠野市の多田克彦さん、菊池新一さん、気仙沼市の畠山重篤さん、一ノ関市の佐藤航さんの話を書きます。

〇花巻市の猿舘祐子さん(一緒に活動しているハーティネットとうわ代表の小原ナオ子さん)
ドイツの池田憲昭さんから、ドイツの子どもたちが使っていたおもちゃを被災地の子どもたちにと、段ボール箱7つが小原さんの自宅に届いていました。中を空けると、日本とは違った木を使ったデザインのおもちゃが出てきました。きっと保育園の子どもたちは珍しさもあり、喜ぶと思います。
猿舘さんと一緒に活動している小原さんは、青年の船に参加し、いち早くそのメンバーに声を掛け、歴代のメンバー(100人×23回)のネットワークへとつながり、その輪が広がっていったそうです。2月間の長い旅から信頼関係が築かれ、毎年続けてきたことで世代を超えたネットワークが生まれ、同じ体験から信頼のコミュニティができているのかもしれません。個人の時代になったいま、若い時の共同体験の重要さを学びました。
小原さんは、財団法人日本国際協力センターのメンバーでもあり、こうした経験から世界に支援を呼び掛け、国内外から段ボール300箱も支援物資が届いていました。たったひとりの主婦でも、さまざまな人生経験から、これだけの支援活動ができるのです。家の倉庫やガレージは、支援物資でいっぱいでした。どこに何があるのかは、分類の仕方は経験から身につけたそうです。
若い時に、理想や理念なき個人主義や競争ではなく、集団での生活や海外支援の経験などをすることで、いざとなった時、自分で判断し、自らの責任で行動できる人間が育っていたのです。
日本は、青年の船や発展途上国で国際協力することを通じて、こうした若い人も育ててきたのです。若い時に、社会貢献できる人を育てておけば、市場のもつ矛盾や課題に対応でき、いまの閉塞感のある時代を変えて行くことができます。市場原理と宗教心の関係だけではなさそうです。
震災が起きた時に、地域づくりの専門家は、自分の方法論ばかり言う人が多く、現地で活動することから考える人は少なかったと聞きました。私は今回行って、困難な状況の中で、的確な判断と行動をしている人は、現実をまず直視して、経験で養われた直観や洞察を基本にしていることを知りました。
ちょうど、釜石市から家を失い、生後2ケ月の子どもを抱きかかえ、かろうじて避難してきていた女性が粉ミルクや洗剤、紙おむつなどを必要として来ていました。お世話になっている家への配慮の物資なども渡し、これから子育てに必要な物資も、きめの細かい親切な対応に感心しました。
また、多田さんが始めた避難民の方をバスで温泉に連れて行く支援に、温泉から出てきたときに、新しい下着などの衣料、身の回りのものを用意したのは、この女性だけのメンバーです。
猿舘さんと小原さんは以前から活動仲間で、大震災後、いち早く、車に支援物資を積み、海岸にある保育園などを、地元の方に聞いて歩き、支援物資を届けました。その後も支援物資を2トントラックに積んで、自分たちで運転し、避難所ともなっている「つつみ保育園」などに運んでいます。子どもの声を聞くと避難者は明るい気持ちになり、元気が出るのだそうです。心のケアには子どもの存在は大きいそうです。
その子どもたちに、ドイツから届いたおもちゃがプレゼントされます。
女性の大胆かつ勇気ある活動に加えて、きめの細かい心配りには、頭が下がります。今後は、東和温泉における下着などの物資提供は、4月27日午前で終了するそうです。バスで被災者を送迎する活動を展開している多田農園さんも、4月一杯でこの活動を終了するそうです。23日に、残るすべての支援物資を必要な人に提供するオープンな場を作り、今月でものの支援をやめて、これからは精神的なケアをするそうです。
これまでの猿舘さんとの活動は別紙でお読みください。※「ハーティネット東和」
今後の活動は、避難所にいて、1か月も動かず支援ばかり受けていると、精神的に落ち込むので、キッチンを作って自分たちで食事を作るなど、避難者ができることをワークショップで決めて、それを支援していきたいそうです。
しかし、キッチンを避難所などに作って、みんなで食べるとか、弁当を作るなどは、保健所が許可しないとだめだと言う話を、遠野市で聞きました。炊き出しはいいのに、なぜと思います。
私が内閣府の舘逸志審議官にこの話をLD研究会後の懇親会の場で話しましたら、彼は行政刷新会議事務局(国民の声担当室長)同会議規制・制度改革担当事務局長になり、今度現地に行き、みなさんからの声を反映したいので、規制緩和の話はどんどん言ってくださいとのことです。現場で感じた矛盾や疑問、規制緩和などありましたら、私までお送りください。すぐに舘さんと連絡をとります。
その後、猿舘さんとは、「はがき商品券」の打ち合わせをしました。
土澤商店街が取り組んでいる、一人住まいの人のためのコーポラティブハウス「こっぽら土澤」、住宅の提供だけでなく、お惣菜やレストラン事業を、商店街の人たちがリスクを背負って進めていますので、これを応援することも併せてしたいと思っています。
商店街の魅力的な商品を詰め合わせ、例えば、佐々長醸造でみそと生醤油、絶品のつゆ、きのこや「おいよ」の山菜や天然キノコなど、いろいろ猿舘さんは思考しています。
はがき商品券を使って、商店街の存続支援をしながら、避難民の支援、地域の経済や雇用の支援を行っていきます。
また、猿舘さんには、お忙しい中を、16、17日と被災地の現場を案内していただきました。さらに16日は、遠野市で菊池さんと話あっていて、いつの間にか夜遅くなり、お願いしてあった宿泊の場がなくなり、猿舘さんの自宅の別室に、6人で泊まらせていただきました。寒い夜だっただけに、ご配慮を心から感謝申し上げます。われわれは、善意のみなさんの対応に、配慮がなく申し訳なかったと反省しております。
なお、現地に行こうと考えているみなさんは、宿泊は花巻市のホテルや遠野市の民宿などありますから、予約していけば大丈夫です。

〇遠野市の多田克彦さん
多田さんは多田自然農場を経営し、農業からさまざまな加工品、レストランまで経営しています。道の駅「遠野風の丘」では、ソフトクリーム、アイスクリーム、チーズケーキが食べられる多田克彦の店や商品も牛乳やプリン、ヨーグルト、豆腐、納豆、ソーセージなど、本当に新鮮でおいしい商品を製造販売しています。こうした新鮮な地元の食品を被災地に毎日届けてきました。
ローカルデザイン研究会では、地元の食品を買い上げ、これを被災者に届けたいと思って支援を申し出たのです。現在は、道の駅は、連日、駐車場は満杯で、道の駅での商品の販売が通常より良く売れ、東京に出荷することができないほどだそうです。
連休後、はがき商品券では、この人気商品を中心に、安全で新鮮な食品を送ってもらえます。少し落ち着いてきたら、多田さんの仲間が作っている野菜や加工品などの構成も考えたいそうです。
さて、多田さんとは、被災地釜石市のカトリック釜石教会にある自立支援センターで、お会いすることができました。ちょうど、ボランティアの方が週1回のBQをしているところでした。20人から30人、全国から集まってきたボランティアの方が教会内で、寝袋で寝泊まりし、個人の家の中にいっぱい詰まったガレキを排出するのだそうです。
たまたま、山梨県富士河口湖町の観光ホテルに勤めていて、今度の震災でお客が来なくなり、首を切られたので、山梨のハローワークに行っては、また釜石に戻って、ボランティア活動をしているとのことでした。あなたのような人を社会はほってはおかない、いい仕事が見つかると思いますなど、お話を聞かせていただきました。
幸い、釜石市のこの地区は、高さ23メートルの巨大堤防(総工費135億円)の効果があり、ほとんどの建物は流されず、1、2階が津波にやられました。ただ、基礎がだめになった家も多く、町の中心はまったく電気はついていませんでした。
びっくりしたのは町にある被害を受けた銭湯「鶴の湯」が修繕を終え、被災者のためにも営業していたことです。みなさん、温かいお風呂は、ありがたいと本当に感じたと思います。
多田さんは、避難所への物資はもういらない、これからは避難所から仮設住宅の支援に変わるだろうと言っていました。
また、帰ってから電話をすると、ボランティアの活動はおおむね釜石市の家の片づけを終え、大槌町の作業をしているそうです。こうした多くのボランティアの活動も続けて行くことで、被災者を励まし、個人の生活を復帰していく効果があります。
また、最初お会いしたときに、ローカルデザイン研究会の支援のお蔭で、ここまでがんばることができた、本当にありがとうと感謝され、胸が詰まりました。みな支援してくれる仲間がいて、いつも以上にがんばれるのです。
ドイツの池田さんからの支援も、カトリック釜石教会のみなさんも知っていて、多田さんや仲間の方から深く感謝されました。
いまも、「The brigade of baker」故郷を超えたパンの旅団が遠野の多田自然農場の工房で毎日パンを焼き、釜石の被災された方々に、いい品質の食べ物を届け励ます姿勢を学びたいと思います。日本でも有名なパテシエや料理人がボランティアを買って出てくれ、被災者やボランティアのへ食事を届けています。
また多田さんは、長期的には、被災者がものをすべてもらって暮らすことに慣れてはだめだ、感謝することさえ忘れてしまうとも言います。これからは、地域で自立しようとする人を応援していかねばだめだと考えています。
はがき商品券には期待していて、支援は被災地に働く場を作ること、経済を作っていくことが大事だから、これからははがき商品券で応援してくださいと言われました。
その後、釜石港に向かうと、大量の新車が津波でめちゃくちゃに破壊され、無残な姿をさらしていました。海の中にはもっと多くの車が沈み、難破した船、そして津波でさらわれた方々も眠っていると思います。
釜石港周辺を見渡すと、頑丈な建物でもクレーンなども、津波のパワーの前には無力で、破壊されていました。無傷のものは何もありません。
今回、自然災害の脅威を実感し、地球は人間のためだけにあるわけでなく、宇宙原理から地殻変動し、日々変化する地球の活動は、時に文明が築いた便利で快適な社会を破壊する力となって表れます。われわれは、都市文明が造り出した巨大な都市装置は絶対安全であると思いこまないこと。持続が難しい不自然な人口環境は、必ず自然な状態に戻されます。ある意味で、こうした自然災害が日本列島を作り上げてきている考えることもできます。自然災害を侮ることなく、災害の歴史から、自然の本質を学び、地域社会を作っていかねばならないと思いました。

〇遠野市の菊池新一さん
NPO遠野山・里・暮らしネットワークのマネージャーや東北まちづくり実践塾の塾長である菊池さんは、3月11日から現場で、身体を張って、民間の立場で被災地の支援をしてきました。
われわれが訪ねた、4月16日は、遠野市のボランティア団体が社会福祉協議会を中心にして集まった「遠野まごころネット」を結成し、がんばり続けた高いテンションから日常へむかいクールダウンするために、ジンギスカンのパーティをしていました。
遠野市はもともと、遠野物語などを基本に据えた個性ある取り組みをしてきた町です。住民と行政の協働のまちづくりなど、もう30年以上の住民自治の歴史があります。それだけに、今回の大震災でも、すぐに住民活動から支援活動を即座に行うことができたのです。今回も行政の災害支援センターの片隅で、みなさん忙しく、物資の輸送等をしていました。支援対象は、行政が行う大きな避難所ではなく、多くの身を寄せ合うような避難所などに、きめの細かい被災者支援を行ってきました。
花巻市の猿舘さんたちは、菊池さんたちの求めに応じて、新鮮な食材など、毎回1万円を基準にして、こまめに運んでいました。支援金を無駄に使わないように、決めた金額の中で長く支援していこうとしたのです。
食事後、菊池さんが行ってきた支援やこれからの活動方針について、話を聞かせていただき、ディスカッションもしました。
これまでは避難民の支援物資の配送を中心に行ってきたが、一息つき、ものはいらないとどこも同じ事を話していました。
自分たちが考えた、遠野市にある10か所の公民館を活用した、コミュニティの支援をしていく計画書を作ったが、まだ避難民は来ようとしていないと話してくれました。それは、
仮設住宅での生活は、阪神大震災と反省を踏まえ、一人にしないこと、コミュニティをばらばらにしないことが重要なのです。現在、入居者の決定は抽選で行っていて、この方法では、コミュニティは分断され、個々人が孤立してしまうのです。遠野市の公民館にはむしろコミュニティの全家族が生活できるだけの広さがあり、自分たちはコミュニティの手足となってお手伝いしたいと考えているが、まだ理解されないようですと、話していました。
個々の家族優先では、長い時間の仮住まいで、精神的な支援にならない。コミュニティがしっかりしていれば、助け合って生きることができ、復興の際にもまとまって再建できるので、何とか実現したいと話していました。
遠野市は、大槌町、釜石市、大船渡市を支援する場にあり、いまも広範囲の支援を行っていますが、被害が大き過ぎ、避難民も多過ぎて、仮設住宅も公民館もスケールが合わないのかもしれません。仮設住宅も必要な数にはとても及ばないので、いまは民宿民家を活用して、避難民の日帰りのデイケアーを実施して、お風呂や買い物など、自分たちの家を提供し、ほっとした時間を過ごしてもらい、感謝されていますと話をしていました。
原研哉さんから、世界の建築家や都市計画家、デザイナーなどからアイデアを出してもらい、それを集めた新しい海の都市のデザインを集めた本を作ったらどうかと、パソコンを出して参考事例のデザインを出して、菊池さんに見せました。
菊池さんは、遠野には縄文時代からの地域づくりや住まいづくりの歴史があり、また、自分たちのまちづくりに自負があると、縄文の知恵から学びたいと話しました。菊池さんには、遠野の人のこれまで持続してきたまちづくりの誇りを感じ、また、陸前高田市のようなほとんど何にもなくなった町には、原さんの提案する新しい情報、広く集めた世界の知恵が必要なのかもしれません。
今回の未曾有の世界的規模の自然災害が起きた町には、世界中から知恵を集めて、世界が支援して、魅力的な都市づくりをすることも、これからの世の中、必要だとも考えました。それがグローバル化の時代に、世界平和にもつながる方法論かもしれません。

〇気仙沼市の畠山重篤さん
私は原研哉さんと別れ、佐藤航さんの案内で、山口さんと畠山重篤さんを訪ねました。
気仙沼市唐桑地区は地盤沈下が激しく、海岸が90cm以上下がっていました。一昨年訪ねた時とすっかり様子が変わっていて、海に近い地域には構造物は何もない状態でした。60人くらいの住民のうち、4人が行方不明となり、空からは自衛隊のヘリコプターが、陸上でも自衛隊や警察が遺体捜索をしていました。
海はあくまで静かで美しく、何事もなかったような光景です。ある意味で、前より一層美しく澄んでいて神秘的ですらあります。
ここで一昨年いただいた、牡蠣やホタテ、ホヤなど、実に美味しかったことを思い出しました。
ちょうど、ニュース23の膳場貴子さんが取材撮影をしていました。畠山さんはいまや日本の知識人のひとりで、マスコミにもよく出演していて、毎日大勢の方が訪ねてこられているようです。
長男の方の案内で、海岸べりを歩きました。3男の方が、津波の時に船を救おうと、沖に出ようとして、波にさらわれて沈没し、漂流後、大島につき、自衛隊に発見されて無事だったそうです。長男は、3男の行動は無謀なだけだと、津波が引く時に出るのではなく、押し寄せた時に沖に出るものだと教えてくれました。それもある程度大きな船でないと無理だといいます。
畠山さんには3人の男の子がいて、みな畠山さんと一緒に、海で働いているようです。娘さんもいるようですが、みなさん、父親のことを尊敬していて、うらやましい理想的な地域に根ざした人間の生き方です。
津波は岸にある畠山さんの施設や船を飲み込み、30mくらい上にある自宅の足元まで押し寄せたそうですが、家もみなさん、津波にさらわれるようなことはなく、無事だったようです。ただ、お母様が寒さで体調を崩して、亡くなられたそうです。心からご冥福を祈ります。
牡蠣もホタテの養殖も、今年の復旧は無理だと言うことです。ただ、海は大丈夫だから、来年には養殖を再生することはできると言っていました。
畠山さんは、「森は海の恋人」というキャッチフレーズで、漁師が山に木を植えて、植物性プランクトンを豊かにすることで、牡蠣やホタテ、海の資源を豊かにできることを証明し、実践している方で有名です。今年も春には、気仙沼市の上流で、一ノ関市にある山に木を植えるのだそうです。
みなさんから預かった支援金をお渡しし、ひげを生やして仙人のような風貌の多田さん、たくましい落ち着いた長男の方と一緒に、復興を誓う海を背景に写真を撮りました。
これからのことはじっくり考え、復興していくのだそうです。3人のしっかりした息子さんがいるから、何か安心した心持になりました。地域にしっかりした家業があり、後継者がいることこそ、持続可能な地域社会を築くことができると感じたのでした。
ローカルデザイン研究会のみなさんに、よろしくお伝えくださいとの伝言を預かりました。ローソクの火のもとで執筆をしたという畠山さん、今後の本の出版や講演会なども約束したと、肩の力が抜けた人間の言葉にならない美しい姿を感じました。どの家も大災害を受け、養殖施設や船を失ったにも関わらず、落ち着いた人間の生き方に、未来を信じることができ、漂然とした畠山さんの姿がいまも焼きついています。
また、気仙沼の市街地では、大きな漁船がまだ陸にあがっていて、周りが粉々であり、そこでも目視による遺体探索が行われていました。地盤沈下があり、潮が満ちてくると道路は冠水して通行止めになります。坂が多い町だけに、冠水と非冠水の地域がくっきりと明暗を分けていて、被災を受けない地域の経済活動はすでに始まっています。
東北人はこうした自然災害に対して、遺伝子の中に不屈な魂と復興への行動が当たり前にように組み込まれていて、どう対処していけばいいのか、知っているようでした。日常を取り戻そうと、くよくよすることなく自然体で働き始める姿勢に、感動すら覚えました。

〇一ノ関市の佐藤航さん
世嬉の一酒造は、東北随一の蔵を持ち、これまでも地震が来るたびに、いつも大丈夫だったかと心配になります。蔵空間が巨大だけに、維持管理するには経費がかかりますが、人の良い佐藤一家は修復しながら守ってきました。
この震災で、ある蔵は壁が隣接した家に落下して、補償問題が起きているし、ビールを製造している蔵は構造的に問題があり、亀裂がひどく、ビール工場は被災し製造できない状態です。商品販売や事務所として使っている蔵も、修理していました、これも根本的に考えねばならないようです。
今回、被災地を視察調査に来た建築家の内藤廣先生が、時間がない中、建物を見てくださり、抜本的にやる必要があるねといわれたそうです。なんとかがんばっていこうと考えていますと、航さんからメールが届いていました。
修復には結構なお金がかかるため、はがき商品券にも期待しているのです。
そして、震災後、まったく売り上げがなくなった時もあるが、いまはみんなが前をむいて、社員もがんばって働いています。社員すべてを雇うことができないので、少ない人数でがんばっていますし、休業となっている社員は、社会保険で給料の6割をもらうことができますが、早く再雇用してあげたいと考えているようです。
また、世嬉の一では、被災者に物資を届けてきたのですが、母親である専務が「たんぽぽの会」を企画立案、設立して、避難している方の生活物資支援に切り替えました。いらなくなった自転車を集め、一ノ関で新しく生活する人にお分けしたり、蔵を整理して使える食器や台所用品などを配ることを始めたそうです。
今回、猿舘さんの案内から、佐藤さんへバトンタッチして、陸前高田市や気仙沼市の被害状況を見て回りました。陸前高田市は、町の中心のすべてを失いました。助かった人はホテルなどの高い建物の屋上などに避難し、一命を取り留めたそうです。
いまも町の中心部を訪ねると、地面は沈下し、海水に浸かり、店も何も、誰もいませんから、今後のまちづくりはまったく新しい発想から都市基盤を計画し、建設を始めねばなりません。
世嬉の一の佐藤さんご一家には、航さん夫妻に2人目の子どもがもうすぐ生まれます。奥さんも落ち着いた表情をしていて、みなさん被災をしているものの、信頼の深さがいっそう深まったように見えました。
山口さんと航さん、専務のお母さんも加わって、はがき商品券の打ち合わせをしていて思ったことは、お母さんの知恵のあること、そしてすぐに体が動き実行すること。東北復興の原点は、住民の持つ力を発揮できる場を作ること。そして、日本全体から、海外から志ある知恵とお金を集めて、応援すると同時に勇気づけられることと思います。
笑顔と笑顔「はがき商品券」には、新しい時代の信頼のマネジメントのヒントがいっぱい詰まっていると信じています。

〇その後、猿舘祐子さんからメールが届きました。
大事なことが書いてあるので、みなさんに紹介したいと思います。

4月16,17日の岩手県被災地視察にお越しの皆さま、お疲れ様でした。
そして、現地の菊地新一さん、多田克彦さん、佐藤航さん、今回の視察に対してご協力いただきまして、まことにありがとうございました。
現地をまわり、被害が点ではなく帯状なのだと、改めて実感いたしました。また、その被災地の中でも、自分の立ち位置をしっかり持ちながら、支援をし続ける3人の姿に接することができ、貴重な時間を持つことが出来ました。
原研哉さんの近未来、菊地新一さんの縄文、今後の復興を考えた時、どちらの考え方も不可欠なものと考えます。
しかしながら、当事者である「そこ」に生きていく住民のみなさんが、どうしたいのかが定まらない限り、「そこ」での生活は見えてきません。
津波にあっても、「そこ」で生きていきたい理由を考えました。
土地への執着、生活の基盤、祖先を守る、墓を守る。などなど。
よくよく考えた末、気がついたことは、「そこ」に住んでいる人たちの日常生活の愛着でした。自分が朝起きてから、寝るまでの当たり前過ぎる日常。「そこ」に、彼らはもどりたい。
贅沢も何も言わない、津波にあう前の日常に戻りたいだけ。それだけなんだと、思います。
でも・・、戻れない。もう・・、前に進むしかない。
どこで、生き方の切り替えができるのかが焦点になっていくものと思います。
一人一人ができることは、決まっていますが、集団になったときに、ネットワークとして動き始めた時、個人以上の力を発揮するのでしょう。
ローカルデザイン研究会のネットワークも、今後大きなうねりとなって動き始めるような気がしています。
梅原さんのデザインは、いつもながらやる側をやる気にさせてくれます。
後押ししてくれます。元気でやるぞ!って思えるデザインです。
今回も、笑顔を忘れていた私たちにとって、大変だけど笑ってやろうよ。と、肩の力を抜いて取り組むことが出来そうです。
全国どこでも、笑顔の親戚になれたら、そんないいことないですよね。全国の笑顔の親戚のみなさん、今後ともよろしくお願いします。

〇最後に、反省を踏まえて
まだ行くべきではないと躊躇していた私を、揺り動かしたのは原研哉さんで、現場にまず行こうと強引に誘ってくれました。また、NPO文化資源活用協会の吉本さんは、地域を支援するならまず現場に行けと、なぜ行かないのかと詰め寄りました。猿舘さんや多田さんは、いま現場に来ないのであればあなたの支援を信頼していないよとわたしにいってくださっているかのような真摯な誘いは、身体の内部から出た言葉でした。
すべての予定を変更し、交通を調べてみると、時間はかかるものの結構現地に行く方法はあるのです。実行してみると、羽田空港からいわて花巻空港まで、1時間でスムーズに着きました。あとは、みなさんが現場に連れていってくれました。
われわれは、大震災後、地元の地域リーダーとのコミュニケーションとその人たちへの支援を続けてきたこともあり、マスコミや災害支援研究者に、そのネットワークを紹介し、非常時でも迷うことなく現場にたどり着き、宿や食料も手配してくださいます。
私は、自らも動き、現場に行くことはできたのですが、現場に行くことより、情報の整理と支援金を集めるのに、神経をすり減らしていました。
まず、できる支援をして信頼のネットワークを築き、できるだけ早く現場に行き、この世界で起きている現実を身を持って知り、自分に何ができるかを問い、仲間とともに行動することです。今後、こうした危機的な状況に対応する経験として、みなさんに私の反省を伝えておきたいと思います。
いまでも緊張感は抜けないので、疲れがたまります。地域のことを思うなら、行けるようになったらできるだけ早く現場に行き、自分に何ができるか、地域の活動家たちとともに、考え続けることです。こうした生き方ができるのも、謙虚に反省し、包容力のある人間に少しでも近づけるのも、みなさんのお蔭です。
みなさんに感謝するとともに、いまは『笑顔と笑顔「はがき商品券」』をしっかり取り組み、雇用と経済支援をしていきます。その後、また現地を訪れ、みなさんから学び、何をするべきか、問いかけて行きたいと思います。デザイナーの梅原さんや支援したいと考えているみなさんから、次に行くときには一緒に連れて行ってくださいと言う声も多く、また現地を歩き、お話を聞き、自分に何ができるかを問い続けたいと思っています。
そして現場を歩かないで、計画書を押しつけることだけは決してしないと、今回の現場に行き、心から誓いました。
こうした情報を全国や海外のローカルデザイン研究会の仲間の情報共有し、未来の地域社会を模索していきたいと思います。
現場で地道に活動するみなさん、時間をかけることで、自然や宇宙の真理が少しずつ分かることもあります。見えない地域の原理を発見し、おごりのない地域社会が実現できるように願っています。
本当に、苦難の日本の状況ではありますが、貴重な体験をさせていただいています。
心よりお礼を申し上げ、犠牲者の霊にやすらかな眠りを、被災者のみなさんには1日も早い、楽しい日常生活が得られますように、心よりお祈り申し上げます。

2011年4月26日 鈴木輝隆

0 件のコメント:

コメントを投稿